抽象のはしごというのは言葉の抽象度が高いか低いか区別することです。例えば自分は世界に一人しかいません。生まれた時に親は自分に名前を付けました。私の場合は「せいじ」です。細胞の集まりである私に「せいじ」というレッテルが貼られたわけです。「せいじ」は固有名詞なので抽象度は低い方です。私の名前を知っている人は私のことを「せいじ」と呼ぶでしょう。
それでは海外へ行ったときに見知らぬ人が私のことをジャパニーズ(日本人)と呼んだとします。「日本人」というのは「せいじ」よりも抽象度が高くなります。なぜなら「日本人」は1億人以上いますが、「せいじ」は多分数千人しかいないからです。例えば宇宙人が私を見て「地球人」と呼んだとします。「地球人」は「日本人」よりも抽象度は高いです。
このように、言葉が指し示すものが多くなればなるほど抽象度は高くなります。抽象度を高くすることで便利なこともありますが、トラブルの元にもなります。例えば「そこのコップとって」と頼まれたとします。近くにあるコップを渡すと「違うでしょう、そこにある緑のやつ」。最初からテレパシーか何かで緑のコップを伝えることができればいいのですが、言葉では限界があります。
相手が発している言葉を勝手に解釈するとコミュニケーションが成り立たなくなります。例えば「このバッグいけてるよね」と友達が言ったとして、「そうだよね」と返したとします。友達の「いけてるよね」は「使いやすそうだよね」という意味だったとします。それを勝手に「かっこいいよね」と解釈していたとしたら、会話は成立してるようでしていません。
幼い子供はいつも抽象度が低いところにいます。言語では表現できないレベルです。それなのに親は言葉で説明するように要求してきます。子供にとっては苦痛なことですが、親に合わせなくてはいけないので、頑張って抽象度を親に合わせようとします。いつの間にか親と同じ抽象度が高いところにいるようになります。こうやって子供は「本来の自分」を感じられなくなるのです。
「本来の自分」は言葉では表現できなくて分からないレベルにあります。抽象度が一番低い場所で「感じる」レベルです。感じていることを一番フィットする言葉で表現できるといいのですが、大人になるにつれて抽象度が高いところにいるので、「感じる」がスルーされてしまいます。